太郎の死後も、爆発は続いた ―岡本太郎の『芸術』を『次の時代』に残した右腕・岡本敏子

 

岡本太郎の死から、10ヶ月で財団を設立した。

2年で、アトリエを記念館に変えた。

そして7年後。

30年以上行方不明だった幅30メートルの壁画を、メキシコで探し当てた。

岡本敏子。

太郎の『芸術』を『遺志』に変え、次の時代へ渡し続けた右腕である。

 

 

「芸術は爆発だ」の人

時代を創造するものは、誰か

 岡本太郎は、作品だけでなく言葉でも時代を刺激した。

1954年。太郎は『今日の芸術』を出版する。

その本に付けられた副題がある。

 

「時代を創造するものは誰か」。

 

既存の価値観に従うのではなく、自分自身で新しい時代を作る。

それが太郎の芸術だった。

大阪万博の太陽の塔。壁画。彫刻。絵画。

太郎は、芸術を美術館の中だけに閉じ込めなかった。

街へ出し、人の目の前に置いた。

半世紀後、この副題の問いは、ある賞の理念として再び使われることになる。

それを実現させたのが、隣にいた一人の女性だった。

 

 

五十年、隣にいた

秘書でも、妻でもなく

 岡本敏子は、1926年、千葉県生まれ。

東京女子大学を卒業後、1948年頃に岡本太郎と出会い、秘書として太郎を支えるようになる。

その関わり方は、事務仕事にとどまらなかった。

太郎の死までの約50年間、あらゆる制作に立ち会った。

取材に同行する。太郎の言葉を口述メモに残す。執筆を扶ける。

のちに敏子は、太郎の養女となった。

結婚という形式を取らなかった太郎が選んだ、二人の形だった。

岡本太郎記念館は、敏子を太郎の「公私にわたるパートナー」と位置づけている。

作品を作る人と、その作品が社会に届く道を作る人。

二人の関係は、この一点に集約される。

 

 

太郎が死んだ日から、本当の仕事が始まった

未完の作品と、未完の構想

 1996年1月7日。

岡本太郎が、84歳で亡くなった。

生前、太郎はこう語っていたと伝えられる。

「死は祭りだ」。

葬式嫌いの太郎に配慮し、葬儀は行われなかった。

だが、敏子の手元には、終わっていないものが残されていた。

一つは、未完の作品。

数点残されていた未完作品の製作と仕上げに、敏子はすべて監修として携わった。

もう一つは、未完の構想だった。

太郎は生前、現代芸術の振興を目的とする財団の設立を計画していた。

しかし、実現する前に亡くなった。

敏子は、その遺志を引き継ぐ。

太郎の遺産の大半を拠出し、1996年11月、死からわずか10ヶ月で財団の設立を実現させた。

さらに1998年。

太郎が暮らし、制作した南青山のアトリエを、岡本太郎記念館として開館させ、自ら館長となった。

経営に置き換えれば、『創業者の理念を、創業者がいなくても動く仕組みに変える』仕事である。

 

 

問いを、賞にした

作品ではなく、問いを残す

 敏子が作った仕組みは、過去を保存するだけのものではなかった。

財団設立の翌年、1997年。

岡本太郎記念現代芸術大賞、通称『TARO賞』が創設された。

川崎市岡本太郎美術館は、この賞を「岡本敏子の熱い情熱によって創設された」と紹介している。

賞の理念に掲げられたのは、あの副題だった。

時代を創造する者は誰か。

太郎が43歳のときに世に投げた問いを、次の芸術家へ投げかけ続ける賞である。

2006年に岡本太郎現代芸術賞と名を変え、現在も続く。

2025年度の第29回では、644点の応募から21組が入選した。

敏子が残したのは、太郎の作品だけではない。

太郎の問いを、次の芸術家へ渡す仕組みだった。

 

 

敏子の基準

追悼では、終わらせない

 敏子の死後の仕事を並べると、一貫した基準が見えてくる。

一、作品ではなく、問いを残す。

絵は劣化する。

だが「時代を創造する者は誰か」という問いは、賞として毎年更新される。

二、追悼ではなく、現在進行形にする。

敏子は太郎の没後、著書や画集、インタビューによる編著を次々と刊行した。

過去の巨匠としてではなく、今も問いかけてくる存在として太郎を提示し続けた。

太郎が没後に若い世代から再評価を受けるようになったのは敏子の功績だと、財団の平野暁臣(敏子の甥・2代目記念館長)は語っている。

三、閉じずに、開く。

記念館はアトリエをそのまま公開した。

そして最後の仕事も、美術館の中には収まらなかった。

 

 

幅30メートルの、探しもの

最高傑作は、行方不明だった

 『明日の神話』。

幅30メートル、高さ5.5メートルの巨大壁画である。

太郎がメキシコシティのホテルの依頼で、1968年から69年にかけて制作した。

太陽の塔と同時期に作られ、「塔と対をなす」と言われる、岡本芸術の最高傑作のひとつ。

描かれているのは、原爆が炸裂する瞬間。

だが、それは被害の絵ではない。

人は惨劇さえ誇らかに乗り越え、その先にこそ明日の神話が生まれる、というメッセージだった。

ところが、依頼主のホテルは経営悪化で未完成のまま人手に渡る。

壁画は取り外され、メキシコ各地を転々とするうちに、行方が分からなくなった。

30年以上、敏子は、この壁画を探し続けた。

そして2003年9月。

メキシコシティ郊外の資材置き場で、『明日の神話』は発見される。

敏子は現地へ飛び、自らの目でそれを確認した。

長年の放置で、作品は大きく傷んでいた。

敏子はすぐに再生プロジェクトを発足させ、壁画を日本へ運び、修復する取り組みを始動した。

 

 

見届けて、逝った

右腕の仕事は、本人の死後も動き続ける

 2005年。

メキシコで壁画を解体し、日本へ移送するための梱包作業が始まった。

その直後の4月20日。

敏子は急性心不全で急逝する。79歳だった。

修復された『明日の神話』を、敏子は見ていない。

壁画は2006年6月に修復を終え、汐留での初公開には50日間で延べ200万人が訪れた。

2008年からは、渋谷駅の連絡通路に恒久設置されている。

美術館の中ではない。

毎日、何十万人もの人が行き交う場所。

芸術を街へ出し、人の目の前に置く。

太郎がやり続けたことと、同じだった。

敏子が探し当てたから、いま渋谷で、誰もが太郎の最高傑作の前を歩いている。

 

 

爆発は、続いている

遺志は、仕組みになった

 岡本太郎は、自分の芸術を自分の力で作った。

だが、その芸術を後世に残すには、別の仕事が必要だった。

未完の作品を仕上げる。

財団を設立する。

記念館を開く。

賞で次の芸術家を支援する。

行方不明の最高傑作を、探し当てる。

それを実際に動かしたのが、岡本敏子だった。

トップの人生が終わったとき、その思想まで終わらせない。

それが敏子の仕事だった。

いまTARO賞の準大賞には、『岡本敏子賞』の名が付けられている。

問いを渡し続けた右腕の名前も、仕組みの中に残った。

岡本太郎が、芸術を作った。

岡本敏子が、その芸術を次の時代へ渡した。

右腕とは、トップの遺志を、次の世代が動かせる仕組みに変える人間のことだ。