【ライフ】「食品スーパー売上日本一企業」を任せて、見極めて、戻った男
弟を右腕にし、弟を解任した ―清水信次の『商い』を『続く会社』に変えた右腕・清水三夫
1988年3月。
役員会の冒頭で、兄は弟を社長から解任した。
清水商店の時代から34年、隣で会社を支えてきた右腕だった。
資本金500万円で始まった会社は、いま売上高8,485億円、321店のスーパーになっている。
だが、忘れてはならない。
この会社を『スーパーマーケット』にしたのは、解任された弟のほうだった。
ライフ創業者・清水信次と、弟・清水三夫。
『任せる』と『見極める』を貫いた、トップと右腕の物語である。
闇市から始まった
19歳の兄と、同志社帰りの弟
清水信次は、1926年、三重県津市に生まれた。
両親は大阪・天満で、乾物や缶詰を扱う食料品店を営んでいた。
1944年、陸軍に入隊し、太平洋戦争に従軍。
1945年に復員すると、闇市での物資売買で元手を作り、19歳で清水商店を立ち上げた。
腕一本、実戦で商売を覚えた兄である。
1954年。
同志社大学を卒業した5歳下の弟、清水三夫が清水商店に入社し、支配人となる。
こちらは、学問で商いを考える理論派だった。
入社してすぐ、店を回す実務の一切を預かる支配人を任されている。
ここから、兄弟の二人三脚が始まった。
1956年10月。
信次は資本金500万円で清水實業を設立する。
事業は食料品販売と、パイン缶詰やフルーツの輸入販売。
まだ、スーパーマーケットの会社ではない。
三夫は、専務として兄の隣に立った。
弟が持ち帰った、新しい商売
輸入卸から、チェーンストアへ
転機は、欧米視察だった。
弟・三夫の欧米視察を受けて豊中店を開いたと伝える資料がある。
海の向こうで三夫が見たのは、売り子のいない店だった。
客が自分で棚から商品を取り、レジでまとめて支払う。
量り売りと対面販売が当たり前だった日本の商店とは、まるで違う光景である。
理論派の番頭は、それを土産話ではなく、会社の未来図として持ち帰った。
1961年11月。
大阪府豊中市に1号店となる豊中店を開き、スーパーマーケット形式の営業を始める。
卸売中心だった会社が、店舗を持つ小売業へ転換した。
いまのライフの原点は、この一店にある。
1963年11月には2号店の塚本店を開店。
同時にライフ本部を設置し、チェーンストアへの志向を明確にした。
1971年10月、板橋店で首都圏へ進出。
兄が決めて、前へ出る。
弟が隣で、会社の形を整える。
仕入れ、資金繰り、店の運営。
兄の即断の裏側を、ひとつずつ仕組みに変え、個人商店の商いを、組織の商いにしていく。
三夫は専務、副社長として、28年にわたり番頭役を務め続けた。
1982年、経営を弟へ渡す
上場と、社長交代
1982年。
ライフは大阪証券取引所第2部に株式を上場した。
どんぶり勘定の会社は、上場できない。
株式市場に立てる会社の形を、番頭は28年かけて作り上げていた。
同じ年、清水信次は社長の座を三夫に譲り、自らは会長になる。
創業から26年。
長年苦労を共にしてきた弟に、経営そのものを託した。
これは単なる人事ではない。
創業者が、自分の代わりに会社を動かす人間を選んだ。
そして当初、その判断は正しかった。
三夫体制のライフは成長を続け、1983年に東証2部、1984年には東証・大証1部へ上場を果たしている。
社長就任からわずか2年で、会社を資本市場の最上段に運んだのだ。
任せた経営は、順調に見えた。
任せた後に、軸が揺れた
バブルと、財テク
1980年代後半。
時代は、バブルへ向かっていた。
名だたる企業が、本業そっちのけで土地と株に走った時代である。
その波は、ライフにも来た。
三夫は銀行融資を元手にした株式運用に傾き、小売業では出ないほどの利益を狙うようになったと報じられている。
肝心の本業が、疎かになっていく。
信次への報告も、なくなっていったという。
信次は、店の立て直しに資金を回すよう促した。
しかし、方針は変わらなかった。
ここで兄は、決断する。
右腕の危機は、逆境ではなく、好況の顔をしてやってくる。
34年、会社の裏側を仕組みに変え続けた番頭ですら、そうだった。
1988年3月、右腕を解任する
守るのは、家族ではなく会社
1988年3月。
電撃的に開かれた役員会で、信次は三夫を社長から解任した。
そして、自ら会長兼社長として経営の前線に戻る。
兄弟二人三脚で成長してきた会社だっただけに、業界の誰もが驚いた解任劇だった。
だが、これは財テクが本業を傷める前の介入だった。
信次にとって、守るべきものは家族経営ではなかった。
会社そのものだった。
この失敗から、信次は一つの結論に至る。
会社は、子や孫に継がせない。
会社を残したいなら、最も優秀な人に任せるべきだ、と。
信次の基準
任せ方には、型がある
この一連の判断を並べると、信次の任せ方には一貫した型が見えてくる。
一、譲るときは、区切りで全部譲る。
上場という節目で社長を渡し、自分は会長へ退いた。
二、任せた後は、口を出さず、軸だけを見る。
日々の経営には戻らない。
だが、本業への集中という軸が守られているかは見続けた。
三、軸が揺らいだら、ためらわず自分が戻る。
促して変わらなければ、傷が深くなる前に介入する。
四、次は、血縁の外から選ぶ。
「任せて、見極めて、必要なら自分が戻る」。
権限委譲は、放任ではない。
見極める責任とセットで、初めて成立する。
血縁の外へ、渡し直す
持株ごと、手放した
復帰した信次は、後継の問題に正面から向き合った。
1992年、三菱商事と業務提携。
ロンドンで面識を得た三菱商事の岩崎高治を招き、店舗運営と出店の現場を10年余り踏ませた。
そして2005年6月、自らの持株20%を三菱商事へ譲渡。
翌2006年3月、39歳の岩崎へ社長を託した。
創業家が持株と社長の座を同時に外へ出した上場食品スーパーは、当時ほかになかったとされる。
信次自身は2021年、95歳で代表権を返上し名誉会長に。
社長通算43年、代表取締役64年。
2022年10月25日、96歳で亡くなった。
右腕とは、任せられるだけではない
500万円は、8,485億円になった
2026年2月期。
ライフの売上高は8,485億円。
近畿圏172店、首都圏149店、あわせて321店を構える。
資本金500万円の輸入商は、日本最大の食品スーパーになった。
その土台には、番頭として28年、社長として6年、兄を支えた清水三夫の存在があった。
セルフサービスという未来を持ち帰り、上場に耐える会社の形を作り、東証・大証1部まで運んだ。
ライフが『スーパーマーケット』であることそのものが、三夫の置き土産である。
清水信次と清水三夫の物語は、単純な成功談ではない。
兄は弟を信頼した。
だから、社長を任せた。
しかし、会社の軸が揺らげば、創業者は自ら戻った。
この関係から見えるのは、『右腕』という言葉の重さだ。
右腕とは、トップの代わりに仕事をする人ではない。
トップが安心して会社を託せるほどの力を持ちながら、会社の軸を守る責任まで背負う人間のことだ。
任せるとは、見なくなることではない。
任されるとは、見られなくなることではない。
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