11年の栄光が溶けた日、男は悟った。頑張りでは残らない。残るのは、誰でも使える形にしたものだけだ。

積み上げた砂の城と、尼崎の夜

「自分がいないと回らないと思っていました」

三枝英也(37歳)は、少し間を置いてそう言った。

かつて彼は学習塾の経営にすべてを捧げていた。25歳で校舎責任者となり、営業、採用、クレーム、給与、全てを自分で回した。子のみならず親とも向き合い続けた。兄弟全員が通うような盤石な信頼を築き上げ、黒字化、拡大、成功。その城は、彼という個人の腕力によって支えられ、永遠に続くものだと信じていた。

2020年3月、会社は、売られた。

自分が5年かけて血肉を分けたはずの組織が、自分のあずかり知らぬ経営判断一つで、他人の手に渡る。

「明日から、もう君の場所ではない」

そう宣告されたも同然だった。その夜、三枝は言いようのない無力感の中、尼崎の夜の街を自転車で走り、お詫びの手紙を各家庭のポストへ配り歩いた。

ポストに入れるたびに、手が止まる。

——これは、自分の仕事だったのか。

答えは出なかった。

どれだけ頑張っても、自分がやっているだけの状態は、残らない。

どれだけ個人のプレイヤーとして優秀でも、組織そのものが属人的な積み上げでしかないのなら、それは砂上の楼閣に過ぎない。

三枝はこの夜、かつての『自分が全部やる』自分を殺した。

そして、『誰がやっても同じように回る形』を作る側の人間へと脱皮した。

カリスマの勘を解体する

更地からの再出発。フリーランスとして最初に手にした報酬は、わずか3万円だった。11年のキャリアを考えれば、惨めな数字だったかもしれない。だが、彼はそこで同じやり方なら、誰でもできると気づいた。

現在、三枝が営業部長として参画している株式会社resolves(リゾルブズ)は、圧倒的な営業力を持つトッププレイヤーが集う、熱量の塊のような組織だ。

だが、そこには三枝が最も危惧する危うさがあった。代表や副社長の勘と馬力に依存し、彼らが止まれば組織も止まるという構造だ。

会議で言った。「そのやり方、他の人でもできますか」空気が止まる。

「今のやり方で売れてるんですよ」正しい。
だから、誰も何も言わない。

三枝は、一度黙った。

——ここで引けば、嫌われない。でも、そのまま続けたら、また同じことが起きる。11年前と同じだ。

「できないと思うので、変えた方がいいです」

場の温度が変わる。反発され、話は進まない。

それでも三枝は、やり方を誰でも使える形に変え続けた。

商談を録音、AIで解析し、トッププレイヤーの思考を誰もが使えるスクリプトへと変換する。顧客管理の手順を一文字のミスも許さないシステムへと落とし込む。

「社長が一人で100点を取り続ける組織より、誰でも70点が取れる道具がある組織の方が、未来は明るい」

9ヶ月後、新人が初月で100万円売った。その人は特別ではなかった。ただ、同じ順番でやっただけだ。

混じり合った糸を解きほぐす

攻めの型を作る傍ら、三枝は事務や現場の立ち上げ支援も別会社で担っている。

ここでは営業ではなく、バックオフィスや現場の立ち上げ支援が主戦場だ。

代表の頭の中には、常に壮大なビジョンと、新しいプロジェクトのアイデアが溢れている。だが、現場にはそれを具現化するための優先順位が欠落していた。

「あれ、どうなった?」

代表の何気ない一言が、現場のスタッフにとっては予測不能な爆弾となる。糸はさらに絡まり、スタッフは疲弊していく。三枝はそこで、あえて嫌われ役を買って出た。

「今、それはやりません。まずはこれを終わらせましょう」。

代表のアイデアを一度預かり、現場のキャパシティと照らし合わせ、一筋の道筋へと整理する。

「僕の仕事は、社長の『やりたい』を、スタッフの『できる』に作り変えることなので」

混沌とした現場に三枝が入ると、ミシミシと音を立てて崩れかけていた組織が変わる。やり直しが減る。三枝の仕事は通すことではない。通る順番に並べることだ。

自分を不要にする、という究極の復讐

なぜ、三枝は一社に留まらず、複数の現場を渡り歩くのか。

それは自分がいないと回らない組織を二度と作らないという、塾時代の挫折から得た執念だ。

「僕が辞めるということは、本来組織は潰れるはずなんです。でも、僕がいなくなっても回るなら、それこそが僕がその組織に残した本質の価値になると考えています」。

現在、彼は元々居た場所とは別の、個別指導専門塾「マイバディ」の経営にも参画している。そこでも徹底しているのは、人が入っても、同じやり方で育つ状態にすることだ。「三枝さん、助けてください」と言われることではなく、「三枝さんがいなくても、勝手に人が育っています」と言われることをゴールに置く。

社長が優秀すぎて、周りが止まって見える。だから社長が自分でハンドルを握ってしまう。

そんな社長の全能感を、三枝は真っ向から否定する。

「絶対ダメです。それしちゃったら永遠に人が入らないし、人が育たないから。それはあなたの立ち位置でやるべきことではない」。

根本からの説教さえ辞さないその姿勢は、社長を管理するためではない。社長を現場の後始末から解放し、再び未来だけを見つめるアクセルへと戻すための、右腕としての愛なのだ。

積み上げるな、型を残せ

理不尽な上司に振り回され、泥水を飲み干すような思いで家路につくあなたへ。 あなたの価値は、そのぐちゃぐちゃに絡まった現場の糸を、一本ずつ静かに解きほぐす指先に宿っている。 社長が放った出鱈目な熱を、誰の手にも馴染む確かな道具へと作り変える。それがないと、また同じことが起きるのだから。

今日、あなたが流した汗は、明日には乾いて消えてしまう。

だが、あなたが今日整理した情報の置き場や、AIによって整えられた商談の記録は、あなたが去った後もこの場所に残り続ける。

自分の腕力で組織を引っ張り上げようとするな。

その腕が折れた時、組織は死ぬ。

代わりに、誰の手にも馴染む確かな道具を現場に置いていくことだ。

社長が撒き散らすその場限りの熱を、誰かがボタンを押せば再現できる形に作る。

その手に残る火傷の痕こそが、あなたがこの組織で戦った、消えない証明になるのだから。

分かった気になるな。その奥にある何が抜けているか、ちゃんと見ろ。

かつて11年の城を失った男の言葉が、今、あなたの明日を変える。

編集後記

三枝さんへの取材中、「末っ子なので、精神的に子供として楽しんでいる部分がある」と笑う姿が印象的でした。しかし、その柔和な表情の裏側には、11年育てた場所を奪われた男の、鋼のような現実主義が潜んでいた。

塾、営業代行、店舗支援。業界は違えど、彼がやっていることは一つです。属人性を解き、組織を資産へと昇華させること。

社長は意思決定をし、現場は実行する。その間にある仕組みという空白を埋められるのは、泥臭い修羅場をくぐり抜け、システムの力を信じ抜いた右腕だけ。 彼のような存在がいない組織は、どんなに速く走れても、いつか必ず自壊する。その残酷な真実を、彼は誰よりも深く知っている。