【鳥山明】500枚ボツにして、ドラゴンボールを引き出した男
50回見た映画から、次の漫画を決めた ―鳥山明の『才能』を『次の一手』に変えた右腕・鳥嶋和彦
デビュー前の鳥山明に、この男は500枚もの原稿をボツにし続けた。
そして、鳥山が仕事中に50回以上見ていたカンフー映画に、目をつけた。
そこから生まれたのが、『ドラゴンボール』である。
鳥嶋和彦。
『Dr.スランプ』と『DRAGON BALL』の担当編集者にして、鳥山明の才能を見つけ、引き出し続けた右腕である。
『ジャンプ』を知らなかった男
嫌いだった雑誌で、才能を探す
鳥嶋和彦は、1952年、新潟県生まれ。
1976年に慶應義塾大学を卒業し、集英社に入社した。
配属は、創刊8年目の『週刊少年ジャンプ』編集部。
しかし、意外にも鳥嶋は漫画に詳しい新人ではなかった。
本人は後のインタビューで、入社当時は漫画を一切読んだことがなく、『少年ジャンプ』も嫌いだったと振り返っている。
そこから、編集者として漫画を研究した。
そして入社2年目、まだ無名だった鳥山明を見つける。
文化庁メディア芸術祭は、鳥嶋を「鳥山明氏を発掘し育てた」編集者として評価し、功労賞を贈っている。
鳥嶋にとって重要だったのは、すでに売れている漫画家を担当することではない。
まだ誰も知らない才能を、見つけることだった。
500枚の、ボツ
厳しさは、読者の代わりに
鳥山明は、絵がうまかった。
しかし、編集者から見れば、それだけで連載が決まるわけではない。
読者が面白いと思うか。
連載を続けられるか。
どんな設定なら、作品として成立するか。
鳥嶋は、デビュー前の鳥山明に対して、500枚もの原稿をボツにし続けたと自著で明かしている。
「ボツ」。
その一言を、何度も突き返した。
作家を否定するためではない。
読者の代わりに、作品を判定するためだった。
その果てに生まれたのが、『Dr.スランプ』だった。
1980年に連載が始まると、大ヒット。
鳥山明の名前を、一気に広げた。
そして作品の中には、鳥嶋自身も登場している。
悪の科学者、Dr.マシリト。
そのモデルが、鳥嶋だった。
編集者が、漫画の悪役になる。
それほど、二人の距離は近かった。
50回見た映画に、目をつけた
作品ではなく、作家を見る
『Dr.スランプ』の成功の裏で、鳥山明は消耗していた。
次の作品が、必要になる。
ここで鳥嶋が見たのは、鳥山明の原稿だけではなかった。
鳥山明自身だった。
鳥山は、仕事中に映画を流していた。
特に好きだったのが、ジャッキー・チェンのカンフー映画。
鳥嶋が鳥山の妻から聞いたところによると、鳥山はその映画を50回以上見ていたという。
そこで鳥嶋は、カンフー漫画を描いてみるよう提案した。
生まれたのが、読み切り『ドラゴンボーイ』だった。
この作品は大きな反響を呼び、鳥嶋本人は、これで『Dr.スランプ』をやめられる見通しが立ったと振り返っている。
そして1984年、『ドラゴンボール』の連載が始まる。
鳥嶋は、初代担当編集者として作品に関わった。
鳥山明に「売れる漫画を考えろ」と言ったのではない。
鳥山明が、何を好きなのかを見た。
その『好き』を、漫画に変えた。
鳥嶋の基準
才能の管理ではなく、才能の翻訳
鳥嶋の仕事を並べると、編集判断に一貫した型が見えてくる。
一、作品ではなく、作家を見る。
原稿の出来より先に、本人が何に夢中かを観察する。
二、削るのはボツで、方向は本人の中から取る。
ダメなものはダメと言う。
だが、次に何を描くかは、押しつけず作家の『好き』から引き出す。
三、判定は、外側の視点で行う。
漫画家は作品の中にいるから、自分の作品を客観的に見ることが難しい。
編集者は外側にいて、読者として、市場として、連載という時間軸から作品を見る。
「作家の『好き』の中に、次の一手がある」。
これは経営にも置き換えられる。
社員の能力を伸ばすために必要なのは、上司が答えを全部与えることではない。
本人がすでに持っている強みを見つけ、それが成果につながる場所をつくることだ。
『才能の管理』ではない。
『才能の翻訳』である。
漫画の外へ、才能をつないだ
クロスメディアという発明
鳥嶋の仕事は、誌面の中で終わらなかった。
ライターだった堀井雄二をゲームの世界へ導くなど、『ドラゴンクエスト』の誕生にも一役買っている。
『クロノ・トリガー』といったゲームの金字塔にも関わった。
1993年には、ゲーム情報誌『Vジャンプ』を立ち上げ、創刊編集長に。
漫画、アニメ、ゲーム。
文化庁は、メディアを横断するクロスメディアの制作手法を確立した点も、鳥嶋の功績として評価している。
才能を見つける。
作品にする。
読者へ届ける。
さらに、その作品を別のメディアへ広げる。
鳥嶋は、編集者という仕事の範囲そのものを広げていった。
鳥山明が去った後の、ジャンプを立て直した
切り札として、呼び戻された
1995年、『ドラゴンボール』の連載が終わる。
看板を失った『週刊少年ジャンプ』は、部数低迷に苦しんでいた。
1996年2月。
鳥嶋は、低迷を打破する切り札として本誌に呼び戻され、6代目編集長に就任する。
翌1997年には、『週刊少年マガジン』に発行部数首位の座を奪われた。
それでも鳥嶋は、新人育成とメディアミックスを指揮し続ける。
その編集長時代に生まれたのが、『遊☆戯☆王』『ONE PIECE』『NARUTO -ナルト-』だった。
次の時代のジャンプを背負う作品たちである。
鳥山明を見つけた男は、鳥山明がいなくなった後の雑誌まで立て直した。
一人の天才に依存する組織ではなく、天才を生み出し続ける仕組みへ。
それが、編集長・鳥嶋の仕事だった。
最後まで残ったのは、才能を見つける仕事
天才の仕事は、天才だけで完結しない
鳥嶋はその後、集英社専務取締役を経て、白泉社の社長・会長を歴任した。
2023年には『Dr.マシリト最強漫画術』を出版。
そこには、鳥山明とのスペシャル対談も収録された。
その翌年の2024年3月、鳥山明は68歳でこの世を去る。
世界中が、天才の死を悼んだ。
だが、その天才を最初に見つけた日、世界はまだ鳥山明を知らなかった。
見つけたのは、鳥嶋和彦だった。
作品のために、厳しい意見を伝え続けた。
鳥山明が夢中になっていたカンフー映画から、新しい作品の方向を引き出した。
その先に、『ドラゴンボール』が生まれた。
天才の仕事は、天才だけで完結しない。
才能を見つける人がいる。
才能を引き出す人がいる。
才能を社会に届ける人がいる。
鳥嶋和彦が担ったのは、その役割だった。
右腕とは、本人にもまだ見えていない才能の使い道を見つける人間のことだ。
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