鳥井信治郎の口癖を『企業文化』に変えた右腕・佐治敬三

1961年、寿屋。
のちのサントリーである。

社長に就任したばかりの41歳の佐治敬三は、80歳を超えた創業者の父・鳥井信治郎に、ある決意を告げた。

ビールを、やります。

それは30年前、父自身が挑み、撤退した事業だった。
ウイスキーで築いた城を賭ける必要など、どこにもない。

だが父は、止めなかった。
返ってきたのは、いつもの口癖だった。

「やってみなはれ」

翌1962年2月、鳥井信治郎死去。

遺言のようになったこの一言を、息子は社是に変える。
そして口癖は、100年企業の背骨になった。

父は、誰もやらないことだけをやった

鳥井信治郎は、挑戦の人だった。

1899年、20歳で大阪に鳥井商店を創業。
洋酒がまるで売れない時代に、日本人の口に合う洋酒を作ると決めた。

赤玉ポートワインを当て、その利益のすべてを、次の無謀に注ぎ込む。

国産ウイスキー。
誰も成功したことのない挑戦だった。

1923年、山崎に日本初の本格ウイスキー蒸溜所を建設。
最初のウイスキーは売れず、それでも樽を寝かせ続け、ついに国産ウイスキーを日本に根付かせた。

社員が新しい挑戦に尻込みするたび、信治郎は関西弁で背中を叩いた。

「やってみなはれ」

ただし、この口癖はまだ、一人の天才の性格にすぎなかった。

継ぐはずのなかった次男

佐治敬三は、鳥井信治郎の次男である。

幼くして母方の縁者・佐治家の養子となり、姓が変わった。
家を継ぐのは、優秀な長兄・吉太郎のはずだった。

だが1940年、その兄が急逝する。

敬三は大阪帝国大学理学部で化学を学んだ、根っからの学者肌だった。
戦後の1945年、25歳で父の会社に入る。

化学者が、商売の世界へ。
この経歴が、のちに効いてくる。

理念を、感覚ではなく、仕組みで扱える右腕になった。

専務16年。父が造り、息子が売り方を発明した

社長就任までの16年間が、敬三の右腕期だ。

戦後の闇市では、粗悪な密造酒で命を落とす人が絶えなかった。
安くて、安全で、旨いウイスキーを庶民に。

1946年、トリスウイスキー発売。
950年には高品質のサントリーオールドを送り出す。

そして敬三の真骨頂は、売り方にあった。

1950年、トリスバーの1号店が池袋に生まれる。
サラリーマンが手軽にウイスキーを楽しめる場所は、瞬く間に全国へ広がった。

宣伝部には、のちに芥川賞を獲る開高健、直木賞を獲る山口瞳を擁した。
広告さえ、文化にした。

父が液体を造り、息子が飲む文化を造る。
販売網でも広告でもなく、『生活の風景』を売る。

この分業が、後のサントリーの原型になった。

父が失敗した場所で、勝負した

1963年、敬三は社名を寿屋からサントリーに変え、ビール市場へ再参入する。

冒頭の直訴から、わずか2年。
父はもう、いない。

勝算は薄かった。
大手3社の壁は厚く、ビール事業は来る年来る年、赤字を垂れ流した。

社内外から撤退論が出るたび、敬三は引かなかった。
残した言葉がある。

「いつかは誰かがやらねばならないことがある。だからうちがやる」

結局、ビール事業が黒字になるのは参入から実に半世紀近く後のことだ。

普通の会社なら、10年で止める。
だがこの会社では、撤退しないことこそが、創業者の口癖の証明だった。

理念は、掲げるものではない。
赤字に耐える予算配分として、示すものだ。

口癖を、制度に変えた

敬三はさらに、父のもう一つの教えを制度化する。

利益三分主義。
儲けは、事業と、得意先と、社会に三等分せよ。

1961年、サントリー美術館。
1969年、音楽財団。
1979年、サントリー文化財団。
そして1986年、サントリーホール。

酒の会社が、美術館とコンサートホールを持つ。
敬三はこれを『生活文化企業』と呼んだ。

口癖だった「やってみなはれ」は社是になり、教えだった利益三分は財団になった。

創業者の人格を、創業者がいなくても回る仕組みに変える。
16年隣で仕えた右腕にしか、できない仕事だった。

天才の性格は、会社の性格になった

信治郎の死から60年以上。

サントリーは今も、新しい挑戦のたびに同じ言葉を掲げ続けている。

「やってみなはれ」

一人の商人の口癖が、10万人企業の合言葉として生きている。
言った本人より、それを社是に変えた男の仕事が、そこにある。

鳥井信治郎が、挑戦した。
佐治敬三が、挑戦を文化にした。

右腕とは、
トップの口癖を、トップ亡き後の会社の背骨に変える人間のことだ。