【川淵三郎】Jリーグ 両足を、サッカーに捧げた男
川淵三郎の理想を「リーグ」に変えた右腕・木之本興三
その男は、自分の両足と引き換えに、日本サッカーを変えた。
比喩ではない。 木之本興三は、本当に両足を失った。
著書のタイトルは、『日本サッカーに捧げた両足』。 Jリーグという、いま当たり前にある風景は、一人の男が文字通り身を削って作ったものだ。
だが、その名前を知る人は、ほとんどいない。
26歳で、選手生命を絶たれた
木之本は、東京教育大学サッカー部の主将だった。 大学選手権で、優勝も経験している。
1972年、古河電工に入社。 サッカー部に入った。当時の監督は、後にJリーグ初代チェアマンとなる川淵三郎だった。
1975年。 新婚旅行から帰り、練習を再開した木之本は、突然、鮮血を吐いて倒れた。
診断は、グッドパスチャー症候群。 肺と腎臓を侵す、致死的な難病。 当時、国内の患者は木之本を含めて13人。 そして、その全員が、発症から5年以内に亡くなっていた。
腎臓を摘出するしかなかった。 選手生命は、その時点で終わった。 以降、週に3回の人工透析が、生涯欠かせない体になった。
医師から告げられた余命は、5年。
透析を続けながら、リーグを作りに行く
普通なら、ここで人生の歩みは止まる。
木之本は、止まらなかった。
1980年、透析を続けながら、古河電工に復職する。 そして、当時は誰も本気にしていなかったテーマに、手をつけ始めた。
日本サッカーの、プロ化。
当時の日本サッカーは、企業の部活動だった。 日本リーグ(JSL)はアマチュア。 ワールドカップには、一度も出たことがない。 プロリーグを持つ韓国に、勝てない。
「プロリーグを作る」など、夢物語だった。
1983年、木之本はJSL事務局長に就任。 森健兒とともに、プロ化の実務を担い始める。
右腕は、理想を「事務」に変える
川淵三郎は、前に立つ人だった。
豪腕。 弁が立つ。 「キャプテン」と呼ばれ、メディアの前で時代を動かしていく。
川淵が掲げたのは、理想だった。 企業の名前を外し、地域に根ざしたクラブを作る。 スポーツを、文化にする。
だが、理想は、理想のままでは1試合も開催できない。
誰が、規約を書くのか。 誰が、参加クラブと条件を詰めるのか。 誰が、放映権を、スポンサーを、運営会社を整えるのか。
木之本がやったのは、その膨大な「事務」だった。
理想を語る人間の隣で、理想が成立する条件を、一つずつ事務に落とす。 透析で週3回、ベッドに繋がれながら、それをやり切った。
「Jリーグは川淵が作った」と、世間は記憶している。 だが、創生の現場で実際に動いていたのは、森健兒と、木之本興三だった。
ワールドカップの現場で、両足を失った
1993年、Jリーグが開幕する。 木之本の余命宣告から、13年が経っていた。
仕事は、終わらなかった。
2002年、日韓ワールドカップ。 木之本は、日本代表団長を務めた。 気性の荒いトルシエ監督に、たじろがせるほどの情熱でぶつかった。
日本代表は、初の決勝トーナメント進出。 ベスト16。
その大会の期間中、木之本は、ホテルで倒れた。
新たな病――バージャー病。 血管が詰まる難病だった。
2007年、右足を切断。 2008年、左足を切断。
医師には、こう言われたという。 「命を取るか、足を取るか」。 木之本は、足を差し出した。
称えられず、それでも続けた
両足を失った後、木之本に待っていたのは、栄誉ではなかった。
川淵の後任チェアマン候補に、一度は名前が挙がった。 だが、その座には別の人物が就いた。 木之本はその人事を公然と批判し、川淵との関係は決裂する。 専務理事などの役職を、解任された。
リーグを作った男は、そのリーグの中枢から外れた。
それでも、サッカーへの情熱は消えなかった。 車椅子で、地元・千葉に戻り、地域密着のクラブと、若い選手の育成に取り組んだ。 大学で講義もした。
2017年1月、うっ血性心不全で、木之本は亡くなった。 68歳だった。
余命5年と言われた体で、彼は、その後42年を生きた。 そのすべてを、サッカーに使い切った。
風景を作った人は、風景の中にいない
いま、47都道府県にJリーグのクラブがある。 子どもが、地元のクラブのユニフォームを着ている。
それは、当たり前の風景になった。
当たり前になったからこそ、誰がそれを作ったかは、もう見えない。
前に立ち、理想を語ったのが、川淵三郎。 その理想を、両足と引き換えに「リーグ」という現実へ変えたのが、木之本興三。
右腕とは、 自分の名前が風景に残らないと知りながら、その風景を作り切る人間のことだ。
関連記事