正論を振りかざすな、着地点を見つけよ
最短距離を行くのがエリートではない。困難を歩いた距離の分だけ、人は誰かの痛みに寄り添える。
「あと数点で落ちる。でも、ここで辞めたら数年間が無駄になる」
合格発表を見るのが億劫になっていた。名前がないと分かった瞬間、息が一度だけ止まる。また冬が来る。
その執念だけで、彼は7度の冬を越えた。畠中謙一、40歳。社会保険労務士法人岡本&パートナーズの実務の要(かなめ)。銀行を早期退職し、海外を放浪し、生活費を稼ぐために雪山で肉体労働に汗を流した日々。エリート街道とは程遠いこの回り道こそが、法律と感情の狭間で『着地点』を見つけ出す、彼の泥臭くも温かい仕事の原点となっていた。
海外で見た、働く痛み
大阪の大学を卒業し、新卒で入ったのは地元の地方銀行だった。融資をお願いします、と頭を下げる中小企業の社長たち。しかし、新人の自分にはその懇願に応える決裁権も、経営を好転させる知恵もない。時代はリーマンショック直後。街全体が活気を失い、資金繰りに喘ぐ企業を前に、彼はただ立ち尽くすしかなかった。畠中は無力感に苛まれていた。「自分には何のスキルもない。このままでは社会の役に立てないと感じました」。焦燥感に駆られた彼は、安定した銀行員の椅子を捨て、英語を学ぶために海を渡った。カナダ、オーストラリアでのワーキングホリデー。そこで味わったのは、言葉も制度も頼れない場所で働く心細さだった。「日本で働く外国人も、きっと同じように苦しんでいるはずだ、と感じたんです」。働く環境を守り、法律の側面から人をサポートしたい。その決意が、彼を『社会保険労務士』という険しい道へと向かわせた。あの日の無力感を、もう二度と味わいたくなかったからだ。しかし、そこからが本当の地獄の始まりだった。
帰国後も、胸の底に残ったのは、正しさよりあの時の心細さだった。働くって、こんなに孤独なんだ――その記憶が、彼を「守る側」の仕事へ押し出した。
雪山とデスクを往復した7年間
「試験、7回受けたんですよ」。畠中は淡々と語るが、その数字の重みは壮絶だ。社労士試験は年に一度。合格発表は秋。不合格の通知を見るたび、冬が来る。冬の間は北海道のスキー場でバイトに汗を流す。雪が解ければ大阪に戻り、夏の本試験に向けて机にかじりつく。 やり直しの反復。それが彼に現場感覚を残した。理屈だけで人は動かない。生活のほうが強い。だから提案も、生活に着地しないと意味がない。
「あと数点で落ちるんです。めげそうになりましたよ。でも、ここで辞めたら、費やした数年間が全部無駄になる」。
将来への不安。同世代との格差。
同世代の友人たちが、キャリアを積み、人生を進んでいく中で、自分だけが同じ場所で足踏みをしている。雪山でシャベルを握りながら、彼は何度も自分に問いかけた。『俺は、一体何をやっているんだ?』。
何者でもない時間を長く過ごすことの怖さ。そういうものが、骨の髄まで染み込んだ。だから彼の仕事には、痛みへの想像力がある。
この7年間は、単なる勉強期間ではなかった。不安定な雇用契約と過酷な労働環境が隣り合わせにある現場そのものを身をもって体感した。来年もここで働ける保証はない。そんな季節労働者たちのリアルな不安を、彼は肌で感じ続けた。
教科書の中の労働法と、現場で生きていくための論理は違う。今、彼が机上の空論ではなく、従業員の生活に寄り添った提案ができるのは、彼自身が長らく守られない側の寒さを知っているからだ。7年は遠回りではない。必要な助走だった。
正論では人は救えない
7年かかって掴んだ資格。紹介を経て現在の事務所に入社した彼を待っていたのは、教科書通りの正解が通用しない現場だった。彼が入社した時期、事務所は人の入れ替わりが激しかった。前任者が退職し、引き継いだ顧客からは容赦ない言葉が飛んでくる。「前の担当の方が良かった」「わかってないな」。
正論を言えば勝てる。でも、その瞬間に関係は終わる。彼は逃げなかった。仕事の失敗は、相手の信頼を削る。だからこそ猛省し、どうすれば挽回できるかを必死に探した。チャンスを見つけ、そこで取り返す執念だけは、7年の遠回りで手放さなかった。彼は現場で学んだ。法律(ルール)を振りかざすだけでは、組織のトラブルは解決しないと。
「ルール上はこうです。でも、それだと社員さんが納得しませんよね。じゃあ、運用でここまで譲歩しませんか、という調整ですね」。そのために必要だったのが、法律家としての知識と、雪山で培った人の痛みへの想像力。その二つを武器に、彼は会社と従業員の双方が納得できる『第三の案(着地点)』を探り当てていった。正義の剣でバッサリ切るのではなく、絡まった糸を一本ずつ解きほぐす。彼は顧客、そして社内の信頼を一つずつ上書きしていった。
今では、代表が最も信頼を寄せる相談相手であり、実務の要だ。
直感を現実に、摩擦を調和に
現在、畠中は社会保険労務士法人岡本&パートナーズで、代表・小木曽氏の右腕としての日々を送っている。代表の小木曽氏は、理屈抜きで人を惹きつけ、安心感を与え、新しい案件を次々と運んでくる天性の愛され力がある。対して畠中は、熱くなりすぎた現場を冷静に整え、実務へ落とし込む役回りだ。
「小木曽先生は、何でも受け入れてくれる方。だからこそ、こちらが空回りするような提案はできないという難しさがあります」。事務所内で社労士資格を持つのは、代表と畠中の二人だけだ。資格を持たないメンバーたちの責任を背負い、法律的な正誤を確認し、業務の偏りを是正する。代表が直感で受け止めた案件を、実務に落とし込む際に生じる摩擦。それを彼がすべて吸収する。彼は、組織にとっての静かなる『緩衝地帯』である。
感情で動くトップと、理屈で支えるNo.2。性格も役割も正反対の二人が噛み合ったとき、組織は優しさと強さの両方を手に入れる。今の岡本&パートナーズの急成長は、この絶妙なコントラストの上に成り立っている。
彼は自分を「これといった特徴がない」と謙遜する。だが実際は、揉めないようにするのではない。『揉めても壊れないように着地させる』。その仕事を、毎日やっている。
「事務効率を上げて、もっとお客さんのところへ足を運びたいんです」。畠中は未来を見据えている。手続き代行という守りの業務だけでなく、労務監査という攻めの提案へ。就業規則はあるか、労働時間は適正か。トラブルが起きる前に、組織の体を蝕む病巣を見つけ出し、治療する。それは、かつてスキルがないと悩み銀行を辞めた彼がようやくたどり着いた、社会の役に立つという実感そのものだ。
「No.2の仕事は、トップの魅力を一番近くで学びながら、自分の色を出せる特等席です」。
かつての自分のように悩み、遠回りをしている人へこうエールを送る。
もし今、板挟みのまま案件が膨らんでいるなら、まず着地を書いてみる。誰が納得して、どこまで譲って、何を守るのか。メモに落とした瞬間、揉め方は変わる。
諦めなければ、道はつながる。最短距離だけがキャリアじゃない。転んだ数だけ、受け止められるSOSが増える。
「10年後の自分へ?もう一回、気張り直せと言いたいですね」。40歳。遅咲きの苦労人は、まだ守りに入るつもりはない。
編集後記
畠中さんの物語は、最短距離を走ることだけが正解ではないと教えてくれます。銀行員という安定を捨て、雪山で肉体労働に耐え、七度の不合格を飲み込んだその軌跡。その粘り強い時間が、今の彼にしかできない『寄り添い』の深さを生んだのではないでしょうか。
プロフィール
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